ウェヌスの暗号

韻を踏み過ぎてパーに成った。

芸術幼女言語の最深部。


或いは美型詩の実験場。


傍観者に過ぎない僕だけど

ふと思う。
いつも張り詰めた顔をしているというのはきっとそれだけ対峙しているものに対して考えているって事なんだと思う。それを神経質だとかいうのは酷く失礼だ。
ネガティブにいうことを「無責任」とか「自己陶酔」とか「慰めを求めてる」とか言うけど、もしもそうだとしていったいそれがなんなんだろう。
弱い人間と悪さは結びつかない。欲望を持つ人間を咎めることはできない。それを正直に自覚しそして肯定することを卑怯な行為というなら、なぜ「人間は完璧じゃない」とか「弱い人々立場の人間を大切にする」なんて想いを持つんだろう。
誰かが卑怯なことをしたら、それを感情が腐ってるとでも思い、嫌悪感を抱くのだろうか。
「本当の弱さ」を持っている人に人間は本当に冷たい。
「本当の弱さ」は人を不快にする。人に迷惑をかける。可愛さもなければ、平気で周りを傷つける。
そう言うことを他の人は「弱いやつ」とは言わない。「いやなやつ」と言う。
いやなやつという言葉自体嫌われるべき人間という意味だ。
結局そういう空虚な弱さは受け入れられず嫌われるだけなのだろうか。


僕はそういう光景を見ていても傍観者でしかいられない。
それは僕という人間自身に自信をもてないから。
そういう光景に関わるのは、大抵弱さを持つ一人と不愉快さを解消すべく強さを振りかざす大勢。
分かってくれる人はなかなか現れない。分かった振りをして笑っている人なら大勢いるけれど。
なんでなんだろう。
何でみんな気づかないんだろう。
平気で使う「弱さ」は儚さだ。
本当に弱い人間はいつだってその行動が否定されているんだ。
そしてなぜその上でその弱ささえ認めることができないのだろうか。


そんなことをふと思った。
僕には関係のない出来事で。
関係性を持ちたかった文章で。
さて、詩を一つ。


気持ちを全て
理解できれば
関係性に
触れられるのに


私は顔色
伺いすぎる
だから心の
姿を望む


高く響いて照らせど寒く
落ちていくよな感覚に
自分の穴を想うのです


矛盾を認め
白さを増して
容易く人を
傷つける


題して「理解の中の檻」です。
それでは。