ライトポエムの最深部。


或いは美型詩の実験場。


母の手様、母の手様。

僕は貴方の自慢には成れませんでした。どうも僕には、世の中の状態の善さと悪さの見え方が人とは随分と違っているのです。他人は知らぬ文字を使い、知らぬ概念に則り、知らぬ色を見つけ、知らぬ声で語っているようにしか思えないのです。僕の知る美しさが、時に退屈なものだと揶揄されることはこれ以上ない辱めです。僕の知る尊さが、人々の瞳には映らないのはこれ以上ない心許なさです。僕の言葉の本質は結局他人の感性とは噛み合わずに酷い音を立てて傷だらけになります。そんな僕にも貴方がいたから、僕は僕を貫けているのです。

母の手様、母の手様。

貴方はいつもその手で愛を教えて下さいました。熱いスウプの入った食器に躊躇なく触れて、僕の目の前まで置いて下さいますね。僕が僕を否定し屑呼ばわりする人々の非難に耳を塞ぎ、不穏な心を患いながら床に伏せると、透き通る清らかな水と、正しい錠剤を枕元に添えて下さいますね。僕が遂には傷つくことに慣れ始め、空虚な心地でいた時も、この背を押して、その先にある新しい解釈や見解、そして傷の癒えるほどの俯瞰に気づかせて下さいますね。貴方からは、この命だけでなく、頼もしくも決して形にはならない、幾重に重なる柔らかな想いを授けて頂きました。

母の手様、母の手様。

貴方は僕の詩などには興味を持ちませんが、その事が僕にとっては密やかな誇りであるのです。貴方はそんな不安で不確かなものを纏った僕でさえ助けてくださるのですから。かの哀しき獣のように、僕は師を仰ぐことなく、友と切磋琢磨することもなく、また人々の評価に耳を傾けることも不十分でした。いつまでも遠回りばかりしては勝手に苦しんでいます。だからせめて僕は貴方の好きなフレンチブルドッグになりましょう。そして凍える体躯を貴方に十分に抱き寄せられた後は、一匹で現代の林へと赴き、ゼンマイ仕掛けの虎に喰い散らかされます。貴方の理解の範疇の外で、正しく死んでいく僕を貴方にも誇ってもらいたいのです。

母の手様、母の手様。

何故貴方は僕よりも先に死んでしまうのですか。僕は僕より先に死んでいく人々が大嫌いです。堪えられないほど、惨めな気持ちになるのです。人々の弱る姿に、脳は恐ろしい程疲弊し、魂が削れていきます。いっそのこと、人はその人柄の素晴らしさによって生命を取捨選択されるべきだとさえ思います。貴方に先に死なれたら、僕はもう貴方の指で抓られ、それに笑う日々を失ってしまいます。どうか、僕より先に死なないでください。できれば僕の死期に立ち会い、黙って僕の頭を撫でていて欲しいのです。そしてすぐに僕など忘れて、僕によって奪われた歳月の分だけ、今度こそ幸いに恵まれた日々を送って欲しいのです。

母の手様、母の手様。

貴方の手のひらの暖かさが何より僕を安心させてくれます。貴方の指先が見事に毛糸を編むのを、僕はいつまでも飽きることなく眺めていられます。貴方の手は僕に哲学と休み方と愛し方、そして人間性を教えて下さいました。僕は今、貴方の指先より少し先の場所で必死に、誰が喜ぶこともなく詩などを書いています。貴方には暗くて細くて頼りなく見えるかもしれませんが、僕は詩を書けることが何よりの幸福なのです。貴方の手のひらのような詩が書きたいのです。貴方の指先を模した言葉を連ねたいのです。だからどうか、僕を心配せずに見ていて下さい。貴方に報えぬ僕を叱ることなく、僕自身に報えぬ僕を叱ってくれる貴方の優しさで、どうか僕が自ら傷つけながらも僕らしく生きるのに目を瞑って欲しいのです。

母の手様、母の手様。

本当にこの生涯全てをありがとうございました。貴方の息子に生まれて幸せでした。貴方の愛が嬉しゅうございました。貴方は僕の良心そのものでした。貴方の人生論に僕は何度救われたでしょうか。それなのに、僕という人間で在り続ける僕でごめんなさい。至らぬところばかりの役立たずでごめんなさい。心が弱く狡い生き方をする卑怯者でごめんなさい。惨めで甲斐性のない木偶の坊でごめんなさい。凡庸にさえ生きられぬはぐれ者でごめんなさい。貴方を愛していることが素直に口から出せない臆病者でごめんなさい。貴方に少しも報えぬ癖に、確かに息子であり続ける僕で本当にごめんなさい。そして願えるのなら、今度生まれてくる時も、貴方の息子でいたいと祈るのを、どうか、どうか許して欲しいのです。

 

「葵の手」