ライトポエムの最深部。


或いは美型詩の実験場。


「人は……」

 

 彼の口癖を思い出すのはいつも、汗ばむような若い夏の夜を振り返る時だった。彼は宇宙を思案するのを喜びとし、特に夏の星を好んでいた。その姿に、臆病な僕は自分が咎びとのように思え、少し気まずい想いをしたのを覚えている。僕は宇宙の得体の知れない深淵に恐怖を感じずにはいられなかった。僕の手の届く限りの全ての世界さえ宇宙にとっては大したものではなく、もっと空疎に無意味に気の狂わんばかりの膨大さをもって支配されているように思えるからだ。しかし彼は科学的見地を持たずして、(或いは文学的と言って良い程、ファンタジーに)宇宙を実に見事に我が物としていた。天の川を裸で泳いだ後、蠍座の焔で濡れた体を乾かし、夜鷹の星を慰めたなら、アルタイルと共にブラックホールを探検するような、そんな夢話を僕に何度も、さも体験したかのように生き生きと語り聴かせてくれた。そしてその瞳の奥にある無邪気な青年の影は、こんなにも恐れている僕さえ、心が思わず高鳴るくらい輝いていた。今思えば彼は宇宙に恋をしていたのだと思う。レプリたちが視た、タンホイザーゲートをくぐって、その周りを包むオーロラを眺め続けたいとも言っていた。奥手な金星と見つめ合って優しい口づけを交わしたいとも。彼の話は、僕の恐怖の根源にある理学な物質論を一切言及せず、あくまで自分もその仲間の一員に成れるような、親しみやあどけなさが散りばめられていた。

 そして、宇宙の話を一頻りすると、彼は決まって少し寂しく微笑みながらその口癖を言った。自らの手の先には確かに宇宙があれど、その距離の遠さに思わず恋焦がれるように。星々が意思を持たぬ大きな石だと知っている自分を胸の中に見つけてしまったように。或いは、空想癖を持つ病人の発作が、冷や水を飲んで一時的に回復した時のように。

 僕はその言葉を聴くと、途端に彼の肩が遠く冷たくなったような錯覚を起した。聴いている僕の方が息苦しくなり、鼓動が酷く激しくなっていく。何か無いのか、何か無いのか、と考えるものの、僕に彼を慰める言葉など出てくるはずもなく、ただ押し黙って彼の手のひらを強く強く握り締める他なかった。この哀しみのせいで、彼が本当に宇宙に奪われ、僕の知らない場所へと攫われてしまわないようにと、強く強く。

 その彼が死を選んだのは今から五年前の事だ。

 彼は本当に、人間に絶望してしまったのだろうか。満天の星空だった夜に、この街で一番高いビルの屋上から、まるで宇宙の尻尾を掴もうとして失敗したように、彼はコンクリートに激しくぶつかり、宇宙からは随分と離れた場所で(これも宇宙的規模から見たら殆ど誤差のような長さだが)骨も肉もバラバラになって、その命を終わらせた。

 僕は棺桶の中に、毒蛇の抜け殻と東北への切符、そして空の牛乳の瓶を入れた。そして、彼が哀しみから解き放たれて、煙に魂を預けながら、彼の考えていた宇宙の世界まで届くことを心の底から祈った。

 それから僕は、夏の夜になるたび、彼の夢物語を思い出しては、時に星空を見上げ、躰を震わせている。彼の口癖は僕の口癖へと変わり、そしてそれを口ずさむたびに、彼が何でそんな言葉を使っていたのかを考えるようになった。哀しみだけではなく、何処か優しい抱擁のような言葉。僕らが僕らである為に必要な言葉。全てを飲み込んだ上で、それでも焦がれずにはいられない、初恋のような言葉。ただ赦す言葉。いじらしい言葉。美しい言葉。掛け替えのない言葉。彼の言葉。僕の言葉。

 僕は、彼を、愛して、いたの、かも、しれな、い。

 彼の真意は土と空に散らばり、もう知る術はない。しかし今では強く思う。この言葉は諦めの言葉ではないと。祈りや祝福や天啓に近い、人間の根源の言葉だと。彼はそれに気づいた上で、あんなに何度も、僕に問いかけてくれたのではないかと。

 今年も夏の夜には恋敵が空を覆う。置き去りになった僕に気づかないまま。

 

「……哀しいね」

 

 

「人は哀しいね」