ライトポエムの最深部。


或いは美型詩の実験場。


全身を強く打って死んだ少年が、そんな甘い言葉の嘘を吐くなと僕を詰ってくる。僕は言葉の使い方を知らないままに、ただ都合の良い、恐ろしくならない、痛みの欠片もない、塗装されたヴィジョンの手助けをするニュースの、整えた知らせに支配されている。

みだらな行為を受けた末自殺した少女が、私の苦しみは一言で片付けられて忘れられると僕に泣いている。僕は想像力の欠落した部分を取り戻す努力もせず、生死ばかり気にして、区別する気力もなく、一日で忘れる程度に、新聞を斜めに読み流している。

もしも僕が道化師の格好をして、公園へと足を運び、幼女を自慰の道具として攫い、使い終えた幼女をゴミ箱に捨て、その足で立川駅のプラットホームから中央特快の電車に飛び込んだとすれば、僕は彼らの亡霊に手を振り、一緒に自分の事件のニュースや新聞を眺められるだろうか。極端なほど簡素化された記事情報に、僕の人生が否定された気になって、怒りを持つことができるだろうか。

 

「次のニュースです。東京都立川市若葉町で小学校帰りの少女中川玲奈ちゃん(10歳)がバラバラにされて、ゴミ捨て場に遺体が遺棄される事件が起こりました。玲奈ちゃんは小学校の帰宅途中、公園で友達遊んでいたところを何者かに攫われ、行方不明となっていましたが、今日未明遺体となってゴミ捨て場に遺棄されているところを近所の住人に発見されました。警視庁は殺人事件と断定し、付近住人の情報提供を受けつつ、捜査を……」

「アハハ」

 

彼らは被害者で僕は加害者なのだから、報道の言葉に不満を持つ時も、多分違う場所に立っているのだろう。彼らの「知られたい」と僕の「知られたい」はきっと根本的に違う意味合いがある。

人生というのは善人でも悪人でもその存在を知られなければ成立することは無い。観測者は全てを見通す義務がある。現代の最も普遍的な観測者は、言葉に遠慮し、緩和し、単純にすることで、彼らみたいな善人の、僕みたいな悪人の、喜びも悲しみも怒りも、何よりその全ての理由も、全部台無しにしようとしている。

頼りにしていた過激な見出しの低俗さえも、今や真実より娯楽性の高い偏見の塊に他ならない。

だから、僕は他人の目に叫ぶ。張り裂けた胸を埋めることができなくても。傷ついた偏見に立ち向かえなくとも。棚上げした過去を取り戻せなくても。

もっと詳細に。もっと明らかに。もっと純然に。もっと剥き出しに。

僕らはいつまでも望んでいる。痛みの正確性や、残虐の具体性に。例え、その配慮を裏切った真実の姿によって、現実の傍に潜む狂気や不幸をより正確に直視させられて、ティータイムの気分が損なわれたとしても。

 

 

「惨事の嗚咽」